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■ 紀元前3500年頃に地中海方面から移住してきたドラヴィダ人が紀元前2600年頃からインダス川流域に定住・農耕生活を築きインダス文明が
栄えたが、紀元前1800年頃に滅亡した。その後、前1500年頃にイラン・イラク高原から遊牧民であるアーリア人がカイバル峠を越えて
パンジャーブ地方に移住した。彼らは前1000年頃にガンジス川流域へ移動、ドラヴィダ人をはじめとする先住民を支配して定住生活に入った。
アーリア人は神々への賛歌であるヴェーダを重視し、司祭階級はバラモンとして特権的な地位を得た。バラモンを頂点とした身分制度は
ヴァルナ(いわゆるカースト制度)と称され、今日に至るまでのインド社会を規定している。
前4世紀、最初の統一国家であるマウリヤ朝が成立し、
2世紀頃には、デカン高原にサータヴァーハナ朝がローマ帝国との海上交易で繁栄、5世紀は、グプタ朝が北インドを統一し、サンスクリット
文学がさかんになる一方、アジャンター石窟などの優れた仏教美術が生み出された。これらの古代王朝の後、7世紀からはラージプートの
諸王朝が分立。エローラ石窟群やカジュラーホーなどが建設された。 |
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■ 11世紀初めよりイスラム教勢力(ガズナ朝)の侵入があって、ガズナ朝から独立したゴール朝が北インドを支配した(1206年)。
13世紀よりデリーに都を置くデリー・スルタン朝が北インドをあいついで支配し、14世紀初頭には、デカン遠征を行い、一時は全インドを統一
するほどの勢いを誇った。一方、南インドでは、10世紀後半ころからタミル系のチョーラ朝が貿易で繁栄し、11世紀には東南アジアの
シュリーヴィジャヤ王国まで遠征を敢行した。その後、14世紀後半から16世紀初頭にかけてヴィジャヤナガル王国が栄えた。
1498年にヴァスコ・ダ・ガマがカリカットへ来訪したことを契機に、ポルトガル海上帝国も沿岸部に拠点を築いた。 |
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■ 16世紀、中央アジアでティムール帝国が滅亡すると、ティムールの一族であるバーブルが北インドへ南下し、デリー・スルタン朝を倒して
ムガル帝国を建てた。3代皇帝のアクバルは、ヒンドゥー教徒との融和を図るとともに統治機構の整備に努めた。
しかし、6代皇帝のアウラングゼーブは、従来の宗教的寛容策を改めて厳格なイスラム教スンナ派に基づく統治を行ったために各地で
反乱が勃発、帝国は衰退にむかった。17世紀、スペイン・ポルトガルの没落に伴い、アジア海域世界への進出をイギリスとオランダが推進した。
両国は東南アジアでアンボイナ事件で衝突し、イギリスは東南アジアから駆逐されたためインドへ進出した。しかし、インド産の手織り綿布を
イギリス東インド会社がヨーロッパに持ち込むと大流行となり、イギリスは対インド貿易を重視した。一方、フランスも徐々にインド進出を
図っており、利害が対立した両国は、新大陸と同様にインドでも抗争を続けた。18世紀後半、七年戦争によってフランスをインドから駆逐すると、
1765年にベンガル地方の徴税権(ディーワーニー)を獲得したことを皮切りにイギリス東インド会社主導の植民地化が進み、19世紀前半に
イギリスの対インド貿易が自由化されたことで、イギリスから機械製綿織物がインドへ流入、インドの伝統的な綿織物産業は破壊された。
さらに、近代的な地税制度を導入したことも、インド民衆を困窮させた。こうした要因から1857年、第一次インド独立戦争(セポイの反乱、
シパーヒーの反乱、インド大反乱)が起こった。徹底的な鎮圧を図ったイギリスは、翌年にムガル帝国を完全に滅ぼし、インドを直接統治下に
おいた。20年後の1877年には、イギリス女王がインド皇帝を兼任するイギリス領インド帝国が成立した。
ただし、小規模な貿易拠点などのいくつかが、フランスやポルトガルの植民地のまま残った。
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■ イギリスはインド統治に際して分割統治の手法をとった。インド人知識人層を懐柔するため、1885年には諮問機関としてインド国民会議を
設けた。しかし、民族資本家の形成に伴い反英強硬派が台頭したこと、日露戦争における日本の勝利、ベンガル分割令への憤りなどから
反英機運が一層強まった。こうした中、イギリスは独立運動の宗教的分断を図り、親英的組織として全インド・ムスリム連盟を発足させた。
第一次世界大戦で、自治の約束を信じてイギリスに戦争協力したにもかかわらず裏切られたことや、民族自決の理念が高まったことに
影響され、インドではさらに民族運動が高揚した。マハトマ・ガンディーの登場は、いままで知識人主導であったインドの民族運動を、幅広く
大衆運動にまで深化させた。ガンディーが主導した非暴力独立運動は、イギリスのインド支配を今まで以上に動揺させた。
第二次世界大戦では国民会議派から決裂した左派のチャンドラ・ボースが日本の援助によってインド国民軍を結成し、
独立をめざす動きも存在した。 |
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■ 戦後、インド内のヒンドゥー教徒とイスラム教徒の争いは収拾されず、1947年8月15日、イスラム教国家のパキスタンとの分離独立となった。
初代首相にはジャワハルラール・ネルーが就任した。独立当初はイギリス国王を君主に頂く英連邦王国であり、インド連合
(Union of India) を
国号としていたが、1950年に共和制に移行した。政教分離の世俗主義という柱で国の統一を図った。インド憲法に書かれた正式国名は
「Indian Sovereign Socialist Secular Democratic
Republic」であり社会主義共和国を標榜している。他の社会主義国ほど義務教育の
完全普及や身分差別廃止の徹底はうまくいかず、小学校さえいけない子も多く貧富の差も激しいが、不可触賎民出身の大統領
(コチェリル・ラーマン・ナラヤナン)や大臣(アンベードカル)も出るなど特例も出てきている。
東西冷戦時代には、(どちらかというとソ連と親しかったが)中立非同盟国家の中心となった。長期にわたって国民会議派が政権を担った。
パキスタンとの対立はその後も続き、カシミール問題と東パキスタンを原因として、三度の印パ戦争が勃発した。
両国の対立は現在も続いている。また、隣国の中華人民共和国とは領土問題で緊張状態が現在も続いている。
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■ 1990年代よりインド人民党が勢力を伸ばしアタル・ビハーリー・ヴァージペーイー政権が誕生した。
ルック・イースト政策に基づいてアジア諸国との関係も重視。中立非同盟とはいえ、アメリカ、イギリスとも友好な関係をとっている。
近年はIT産業や製造業を中心に経済成長を続け、ロシアやブラジルなどとともにBRICsの一角として注目を集める存在となった。
また、2006年7月9日には、核弾頭搭載可能な中距離弾道ミサイル「アグニ3」(射程3500km)の初の発射実験を行った。
当局は当初、発射は成功したとしたが、その後上空でミサイル下部の切り離しが出来ず、目標落下地点には到達しなかったと発表した。
広大な国土に対するインフラ整備が進んでいないこともあり天災による被害を受けやすく、2006年8月10日、モンスーンによる洪水の被害者は、
東部のグジャラート、南東部のアーンドラ・プラデーシュの2州だけで、約1300万人に上った。
全土での死者は、10日までの9日間で240人に達した。 |
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